日本の学生運動の流れ
日本の学生運動は、20世紀初頭の大正時代から行われていました。普通選挙制度を求める運動や、言論・集会・結社の自由を求める運動、男女平等、ストライキの権利などが世間的に叫ばれていました。
その1つとして、学生が自由教育や大学の自治権などを大学に求める運動が行われます。しかし、第二次世界大戦に突入し、学生運動はなくなりました。
第二次世界大戦後、学生運動は復活し、1948年には全日本学生自治会総連合が結成されています。
1960年には、日米安全保障条約改定を巡る通称「安保闘争」で東京大学の樺美智子さんが命を落としています。その後、全学共闘会議の台頭で1968年をピークにして学生運動が激しくなります。
1970年以降は、暴力行為が激化する学生運動への恐怖と、1972年の沖縄返還による反米感情の薄れなどから学生運動は下火になっていきました。2000年代以降も学生運動はあるものの、1960年代に比べると衰退しています。
学生運動のはじまり
大正デモクラシーの影響を受けて、東京帝国大学に「新人会」、京都帝国大学に「労学会」、早稲田大学に「民人同盟会」が結成されます。そして、普通選挙を求める社会運動に参加するようになりました。
その後、学生連合会が設立され、自由擁護運動や学生自治運動などが展開されます。しかし、第二次世界大戦に突入し、学生運動は一度姿を消します。
全日本学生自治総連合の結成
第二次世界大戦が終結すると、全日本学生自治総連合が結成されました。全日本学生自治総連合は、日本共産党の影響が大きくありました。しかし、1955年以降は日本共産党を批判する立場になり、新左翼として独自に運動を展開します。
安保闘争
学生運動の1つの大きな盛り上がりが見られたのは、第二次岸信介内閣の際に行われた日米安全保障条約の改正に関する反対運動です。
安保闘争の反対デモは平和的なものでしたが、学生たちは警官隊と衝突するという方法を取り、これ以後安保闘争は激化します。
1960年6月15日に起きた「6・15事件」では、国会敷地内に侵入してきた学生と警官隊との衝突の中で、東京大学の学生の樺美智子さんが亡くなっています。これにより、警官隊は世間の批判にさらされ防戦一方になったのに対し、学生運動はより攻撃的になりました。しかし、日米安全保障条約が批准され、岸信介総理大臣が辞任することで収束していきます。
ベトナム戦争への反対と全学共闘会議の台頭
1960年代半ばになると、アメリカ合衆国でベトナム戦争の反戦運動が盛んになります。それにともなって、日本でもベトナム戦争の反戦運動を通して学生運動が盛んになります。
1967年には、佐藤栄作総理大臣の南ベトナム訪問を阻止するために第一次羽田事件が起き、京都大学の学生が亡くなっています。1968年には、国際反戦デーで全学連と警官隊が大きな衝突を起こしています。
また、このころから政治的な党派や学部を越えた組織である全学共闘会議が台頭してきます。全学共闘会議の学生は、武装することを辞さずに大学をバリケードで封鎖したり占拠したりしました。
1968年に起きた日大闘争では、校舎の4階から突き落とされた機動隊員が頭を打ち亡くなっています。その翌年には、東大生と機動隊が衝突することになった東大安田講堂占領事件が起きています。
暴力の激化と沖縄の返還
学生運動は、学生にとって世の中を良くするための運動であり、それに参加することは一種のステータスにもなっていたようです。
しかし、学生運動が暴力化し、組織内でのリンチや殺し合いが起きるようになり、参加する学生の数は減っていきます。また、高度経済成長を経て、経済的に豊かになってきた社会と1972年に沖縄が返還されたことにより、反米意識、反資本主義意識はだんだんと薄れていきます。
その後の学生運動
1970年代初頭以降は、学生運動に関わっている学生はほとんどいなくなります。2000年に入ってから、リーマンショックで世界的な不況になり、内定取り消しなどが起こりましたが、目立った学生運動は行われていません。
しかし、2011年の東日本大震災後の脱原発デモや2014年の集団的自衛権に関する反対デモなどは行われています。代表的な団体として、自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)があります。(2014年末に解散)