七夕の由来について子供と話そう!起源や歴史、物語について解説! - cocoiro(ココイロ)

七夕の由来について子供から聞かれとき、みなさんはきちんと答えられるでしょうか。七夕が庶民に広まったのは江戸時代、さらにその起源をさかのぼれば千年以上前の中国の伝説にまでたどり着きます。今回は、長い時を経て変化してきた七夕について、由来や歴史から、七夕伝説のあらすじやストーリーまで、順に解説していきます。子供に語り聞かせる際の参考にしてください。

七夕とは?由来と歴史を知ろう

まずは、七夕の由来と歴史について見ていきましょう。

日本の七夕を形作ったとされる3つの要素

一般的に、現在の日本に伝わる七夕は3つの要素から成り立っていると言われています。1つ目は、織姫と彦星の物語で知られる「七夕伝説」、次に古代中国で行われていた行事である「乞巧奠(きこうでん)」、3つ目が「棚機つ女(たなばたつめ)」のならわしです。

以下、順に説明します。

七夕伝説

七夕と言えば、織姫(織女星・ベガ)と彦星(牽牛星・アルタイル)の物語を思い浮かべる方が多いでしょう。多くの人に親しまれてきた、あの物語が七夕の起源なのです。天帝の怒りに触れ、天の川を挟んで離れ離れになった2人が年に一度、7月7日にだけ会うことを許されるというこのお話は、古代中国で誕生しました。

その後、東アジアの国々に語り継がれていき、時代や場所によってその形を変えていきました。日本に伝わる七夕の物語にもいくつかのバリエーションがあります。

古代中国の乞巧奠(きこうでん)

七夕伝説における織女はその名の通り、機織りをする女性です。古代中国では、機織り上手な織女にあやかり、手芸の上達を願う巧奠と呼ばれる祭が旧暦の7月7日に行われていました。この行事が遣唐使の持ち帰った書物によって七夕伝説とともに日本に伝わり、宮中行事として行われるようになります。庭の祭壇に五色の糸や針などをまつり、星に祈りを捧げました。

乞巧奠では、索餅(さくべい)と呼ばれる小麦粉と米粉を用いて作られるお菓子が供えられ、現在、七夕の行事食とされるそうめんの原型になったとも言われています。

また、乞巧奠において、当時の貴族たちは詩歌や裁縫などの技芸の上達を願い、梶の葉に和歌をしたためました。これが、短冊に願い事を書く現代の七夕のルーツともなっています。

棚機つ女(たなばたつめ)の習俗

七夕の由来として、現代は七夕伝説と乞巧奠に加えて「棚機つ女(たなばたつめ)の習俗」が挙げられています。

棚機つ女とは、人里離れた水辺の機屋(機を織る建物)にこもり、神の衣を織りながらその訪れを待ったという乙女・巫女のことです。棚機つ女は神とともに一夜を過ごし、翌日、神を送りました。神送りの際には村人が禊(みそぎ)を行い、罪や穢(けが)れを神に託して異界へと持ち去ってもらったといいます。

このような習俗が七夕伝説や乞巧奠が中国から伝来する以前に存在し、混ざりあうことで日本の七夕が形作られたという独創的な見解を示したのが民俗学者の折口信夫です。折口は『古代研究(民俗学編)』の中に収められた「水の女」で、その論を展開しています。

現在では、折口が提唱した説が流布しており、日本の七夕の起源として「七夕伝説」、「乞巧奠」、「棚機つ女の習俗」が挙げられるのが一般的です。

一方、棚機つ女の話については、古事記や日本書紀にその記述はなく、現在に伝えられる七夕と直接の関係がないとする説もあります。

ただ、日本の民俗行事としての七夕には、水浴びや井戸さらいなどといった中国から伝わった七夕と異なる要素や伝承が見られます。折口の説から離れた場合であっても、現在日本各地に伝わっている七夕に「日本固有の信仰が反映している」と判断することは不自然ではないでしょう。

七夕(たなばた)と呼ばれるのはなぜ?

「七夕」は文字通り7月7日の夕方を表す言葉ですが、中国から日本に伝来した当時の読み方は「たなばた」ではなく「しちせき」でした。万葉集や日本最古の漢詩集である懐風藻(かいふうそう)には、すでに七夕の漢字が出現していますが、その読みが「たなばた」なのか「しちせき」なのかは分からないと言われています。

これがどのようにして「たなばた」と呼ばれるようになったのかについては諸説ありますが、先述の「棚機つ女(たなばたつめ)」に由来するという説が一般的です。

ほかには、稲などの田から生じるもの(たなつもの)および機織りによって作られるもの(はたつもの)を意味する「たなつもの・はたつもの」という語を略して「たなばた」とする江戸期の文献に書かれた説があります。「たなつもの・はたつもの」という言葉は、牽牛と織女の2つの星がそれぞれ耕作と機織りをつかさどっていることに由来します。

参考
棚機・織女・七夕 精選版 日本国語大辞典|コトバンク

和歌に歌われた七夕

中国で生まれた七夕伝説および乞巧奠は、遣唐使とともに日本に伝えられ、奈良時代にはすでに知識層に広く浸透していたと考えられています。

現存する日本最古の歌集である「万葉集」には、七夕を詠んだ歌が134首も収録されています。その多くが、天の川に隔たれた織姫と彦星が年に一度だけ出会うことを許されたという「七夕伝説」を歌ったものです。織姫と彦星のロマンスが当時の貴族たちの心をつかんで離さなかったことをうかがわせます。

庶民に広まったのは江戸時代

中国から日本に伝来し、宮中で定着した七夕行事が庶民の間に広まったのは江戸時代になってからのことです。笹竹に五色の短冊や七夕飾りを吊るすという現在でも行われている風習は、当時、寺子屋を中心にして人々に普及しました。寺子屋の子供たちは短冊に詩歌を書き、習字などの手習い事の上達を願ったといいます。

江戸期に記された『近世風俗志』には、子供がいる家もいない家も、豊かな家も貧しい家も関係なく七夕行事を行っていたと書かれており、当時の賑やかな市中の様子をうかがわせます。歌川広重の『名所江戸百景』の中にも、七夕の情景を描いた「市中繁栄七夕祭」という作品があります。