七夕の歌「たなばたさま」の歌詞と意味は?歌い継がれる夏の夜の情景 - cocoiro(ココイロ) - Page 2

「たなばたさま」が生まれた時代

『たなばたさま』が誕生した時代や作詞者・作曲者についても確認しておきましょう。

戦争中に文部省唱歌として登場

『たなばたさま』が世の中に登場したのは太平洋戦争が始まった1941年のことです。国民学校の2年生向けの教科書「うたのほん下」に文部省唱歌として収録されました。

文部省が事前に題材を指定した上で、作詞を依頼したと言われています。

作詞は権藤花代

『たなばたさま』の作詞は童謡詩人の権藤花代です。

権藤花代(ごんどう はなよ)は1899年、山梨県北巨摩郡穴山村(現在の韮崎市穴山町)に生まれました。山梨師範学校を卒業後、母校の尋常小学校に勤務しますが、文学への強い思いから上京を決意。出版社に勤めながら詩人で作詞家の野口雨情(のぐち うじょう)らに師事します。

代表作である『たなばたさま』を始め、1961年に62歳で亡くなるまで童謡詩や童話、短歌など数多くの作品を残しました。

生まれ故郷の韮崎市穴山町には、『たなばたさま』や『ないしょないしょ』、『雲雀の子』など、彼女の代表作を刻んだ詩碑が建立されています。

作曲は下總皖一

『たなばたさま』を作曲したのは、作曲家・音楽教育家の下總皖一(しもおさ かんいち)です。

1898年、埼玉県の原道村(現加須市砂原)に生まれた下總皖一は、1920年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学)を主席で卒業します。その後ドイツに留学。帰国後は多くの音楽理論書を記し、日本の近代音楽の基礎を作りました。

教育者として各地の学校で教鞭をとるかたわら、文部省唱歌や童謡、校歌、三味線や箏(そう)など日本の伝統楽器の曲を数多く手がけ、総作曲数は2,000曲とも3,000曲とも言われています。