5月5日の「こどもの日」は、以前「端午の節句」という年中行事として男の子の成長を祝う行事でした。しかし、名前を聞いたことがあっても、具体的にどういったことをするのか分からない方もいるのではないでしょうか。端午の節句の由来や日本でどのように浸透したか、また外せない定番の「もの」などについてご紹介します。
もくじ
端午の節句とは
「端午の節句」の由来
「節句」は、「節供(せっく)」とも言い、季節の変わり目になる日のこと。江戸時代に定められた五節句は、1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(しちせき)の節句」、9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」を示します。
人日の節句は、「七草の節句」とも呼ばれ、七草粥を食べるのが一般的。上巳の節句は、ひな祭りに当たります。重陽の節句は、菊の節句と呼ばれ、不老長寿や繁栄を願う行事でした。節句では、豪華な料理を神様にお供えして、厄除けをしていました。当時、医療があまり発達しておらずに、季節の変わり目の変化についていけず、病気にふせたり、命を落としたりする可能性もあったからです。
端午の「端」は物の「はし」で、「始まり」という意味です。月の最初の「午」の日を節句として祝う風習がありました。さらに旧暦の5月は、干支の「午(うま)」の月。「午」は「五」とも読め、縁起のいい陽数(3、5、7、9などの奇数)を重ねて、5月5日を端午の節句として決めたようです。端午の節句は、現代の「こどもの日」にあたります。1948年に、国民の祝日として制定されました。
中国から日本へ流入した慣習
端午の節句の節句の起源は、古代中国にあります。
約2300年前、楚(そ)の国王の側近で、屈原(くつげん)という政治家がいました。屈原は、詩人でもありました。正義感の強かった彼を慕う国民は多くいましたが、陰謀によって失脚して、国を追われてしまいます。屈原がその時の思いをうたった長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史に残るほど有名な作品。国の行く末に絶望した屈原は、川へ身投げしてしまいます。
彼の死を悲しんだ楚の国民は、竜を模した舟を出して、その川へ向かいました。太鼓の音で魚を驚かせ、粽(ちまき)をばら撒いて、屈原の死体を魚が食べないようにしました。屈原を供養するために毎年祭りが行われ、中国全土へと広がりました。その風習は、病気や厄災を避けるための宮中行事として「端午の節句」と呼ばれるようになりました。
そんな端午の節句が日本に入ってきたのは、奈良時代です。当時、季節の変わり目の病気や厄災を避けるため、菖蒲(しょうぶ)や薬草を使い、「菖蒲湯」などを用いて厄除け、健康祈願していたようです。鎌倉時代になって武家の勢力が増すと、菖蒲と同じ読みで、武家を敬う考えである「尚武」になぞって、一家の跡取りとなる男の子の健康や成長を願いました。江戸時代に入ったころには、武家だけでなく庶民の間でも親しまれるようになりました。