「元号法」の歴史的経緯
古くから日本で使われてきた元号。江戸時代が終わり、明治に入って立憲君主制が確立したことと、元号が現在の姿になったこととは深い関わりがあります。
旧皇室典範
太平洋戦争終結より以前、元号は「旧皇室典範」により定められていました。大日本帝国憲法と合わせて「典憲(てんけん)」と呼ばれることもあったほど、戦前の日本において旧皇室典範は重要視されていました。
この旧皇室典範の第12条および「登極令(とうきょくれい)」に、元号の定め方が記載されていました。
第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
(引用元:皇室典範 (明治二十二年二月十一日)|Wikisource)
旧仮名遣いを現代仮名遣いに直すと、上記は「践祚(せんそ)の後元号を建て一世の間に再び改めざること明治元年の定制に従う」と読めます。
践祚とは天皇が後を継いで即位することです。明治元年に、「天皇が一度即位して元号が定まったら、次の天皇が即位するまで元号を改めない」ということが決められたということが分かります。
それまでの元号は、さまざまな理由で改元されていました。「名前の響きが良くない」という理由で2ヶ月ほどしか使われなかった「暦仁」という元号もあります。明治に入り皇室典範が定められたことで、現代にまで続く「天皇1人につき元号1つ」という決まりが作られました。
参考
典憲(テンケン)とは|コトバンク
皇室典範 (1889年)|Wikipedia
登極令|Wikipedia
使用期間最短の元号は「暦仁」の2カ月と14日… 『元号 全247総覧』山本博文編著(1/2ページ)|産経ニュース
現皇室典範
戦後、GHQは旧皇室典範を廃止します。昭和22年(1947年)には新しく現在の皇室典範が作られますが、元号についての記載はされませんでした。
新しく制定された憲法や法律にも元号については定められず、元号は法的根拠を失ってしまいます。当時の内閣は元号法を制定しようと試みましたが、再度の軍国主義化を懸念するGHQの反対によって実現しなかったようです。
敗戦後、元号の根拠法令だった旧皇室典範などが廃止されたため、政府は皇位の継承時に新元号を定めるとする元号法案を閣議決定した。しかし連合国軍総司令部(GHQ)は「天皇の権威を認めることになる」として撤回させた。
(引用元:社説:残り1年の平成時代 元号の持つ意味を考える|毎日新聞)
参考
皇室典範|e-Gov法令検索 – 電子政府の総合窓口e-Gov イーガブ
昭和天皇崩御に先立ち元号法を制定
昭和天皇が高齢となり、代替わりが見えてきた昭和54年(1979年)に現在の元号法が制定されます。これにより元号は再び法的根拠を得ました。
元号法制定に先立って、毎日新聞による「元号に関する世論調査」が実施されました。当時は元号を日常的に使用する国民の割合が非常に多いこともあり、元号を存続させることになったようです。同時期に毎日新聞が実施した世論調査でも、国民の間で元号は日常的に使われていたことが分かっています。
79年3月の毎日新聞の世論調査によると「昭和」は国民生活に定着し、9割近くが元号の存続を望んでいた。元号と西暦の使用状況については「主に元号」が78%に達し、「主に西暦」の4%を圧倒した。「元号と西暦と半々」は16%だった。
一方、「法制化して存続させる」は21%にとどまり、「現在のように慣習として使っていく」が44%と大きく上回った。
(引用元:社説:残り1年の平成時代 元号の持つ意味を考える|毎日新聞)
その10年後、昭和64年(1989年)に昭和天皇が崩御。元号法に基づき、次の元号が平成と定められました。