(前回の続き)
もくじ
<トークセッション:正しさから自由になる>
話し手:藤川大祐(千葉大学教育学部教授) 若新雄純(慶應義塾大学特任准教授)
若新:先ほどのお話の核心のリフレクションの話、やばいですね。どれだけ正しいことを教えてくれる先生か、やいい先輩に巡り会うかが重視されてきたけど、これから一番重要なのは、どんな人においても、自分で自分自身のことを考えられることが最も重要だよってことだと思うんですね。だから先生がいらなくなるということではないけど、ある意味僕の解釈だと、どんな環境でも生きていける子は、自分の中に自分っていう究極の先生みたいなのを作れるかどうかなのかなってちょっと思っていて。
藤川:これね、人によるのかなって思ってます。自分の中で究極の先生を見つけて生きていけるタイプの人もいれば、やっぱりそこは自信がなくて、周りと関わりながら手探りで自分を見つけていく人もいると思うんですね。今、人はどういうモチベーションやストレスで動くのかについて、学校の先生たちに学んでもらえないかAIとかで研究してるんですけど、結構個人のタイプが違って。多分若新さんは内発的に動く人で自分の中にしっかり軸があって、人から褒められてもそんなに気にせず自分の基準で動ける人でしょう。
そういう、自分で基準を持ってる人はいいんですけど、大人になっても褒められないとやだとか、批判されると辛い人って結構いるわけで。良い悪いじゃないと思うんですけど、子供もうちは成長で変わっても、大人になるとなかなか変化しづらいんですね。だからいろんな人がいるんだと。
揺れ動いてきた「教育」の意味
若新:あと、順を追って聞いていきたいんですが、educationという言葉が本来は才能を引き出すという意味で日本に輸入された時に、なぜ今の教育という言葉にイメージされるような、理想の形に持っていこうとなっていったんですかね。まあ時代の背景もあったんでしょうけど。
藤川:これは、江戸時代から明治時代にかけて2つの方向で揺れてきています。江戸時代には、正しいことを学ぶ、寺子屋や中国の漢語など、決まったテキストを学ぶ今の教育的なイメージが強かった。ところが明治以降は西洋の考え方が強くなって、特に大正時代、大正自由教育って言いますけど、子供一人一人の発想とかを伸ばして行こうっていう、わかりやすくいうと黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」とか、そういう教育が重視された時期もあったんですね。
でもまた戦争が始まると受動的な教育が強くなって、戦後は、”自由”って結構振り子のように動いていく中でも儒教的な考え方は根強かったり。まあ親を敬うとか、偉い人を敬って正しいことをきちんと勉強という形で学んで身につけましょう、というのが強いですね。
若新:僕はずっと山奥で公立の学校にずっと通っていたんですが、極端に正しさ重視でした。もっとバランスよく両方があってもよかったと思ってるんです。正しいことをちゃんと学ぶ時間と、一人一人の違いを活かす時間と。どうして教育は、正しいことを教える方に振り切ってしまったんでしょうね。
藤川:本来はバランスが必要だと思いますし、多分国レベルではバランスをとるとはいってるんですよね。
正しさに逃げるか、リスクをとるか
若新:うちの両親は学校の先生でしたが、正しさを常に求めていて、例えばドリフは見ちゃダメだったし、バカ殿さまも禁止だった。夜9時に寝ないと馬鹿になるっていうし、あとスーファミを買ってもらえなかった。その理由っていうのが彼ら彼女らにはあって、とにかく「どうやらダメらしい」ものは禁止されていた。うちの親は極端なのかもしれないけど、すごい窮屈だった。
藤川:まあTVの普及以降、親の世代と子供の世代で環境がかなり違ってきてるので、経験論が通じないのは大きいです。経験上「そんなもんか」ってわかっている多くの人は、少し悩みつつも、スーファミでもTVでもなんでもやらせるんですけど、でも、昔なくても大丈夫だったからなくてもいいんじゃないっていう方が一定数います。
若新:新しく出てきたものは効果がよくわからないし、不確かなものはとりあえず取り入れない。
藤川:正しいかどうかっていうと、正しいという保証はないし、むしろ悪影響の方が懸念されます。リスクを避けるために、新しいことは子供にやらせないっていう親御さんは結構います。
若新:でも、もともと子供を育ててることは、正しさを追い求めるわけではなくて一人一人に密着した多様さを引き出すことにあったわけで。今の環境の中で正しさを求めることが0になることはないと思うんですけど、どうやって正しさだけに縛られないかっていうことを、学校教育でも気にせずやっていかなきゃいけないですよね。
藤川;そうですよね。正しいことに向かって一直線でいいなら簡単なんですけど、一人一人に合ったことを、あんまり大人が無理にやらせるんじゃなくて、のびのび引き出していこうと思うとどうしてもリスクを感じちゃうんですよね。教員もそうだし親もそうだと思うんですけど、できるならこの子が変な方向にいかないようにしたい、そのためにできることをしたいっていう風になるんだと思います。
一人ではなく、多くの大人に会わせる
若新:そこで先生に聞きたいのが、今求められるコンピテンシーの図(資料2)の中で「いろんな人と関わらせる」ってあったじゃないですか。あれは、一番具体的にこれから始めやすいし、まさにそうだと思うんです。いわゆる価値観が違う人や世代が違う人と話せば、どれが正しいかははっきりしないけど、いろんな関わりの中から自分を見つけることができるって話ですよね。
それにも関わらず、僕は学年が違う人とばかり遊んでたら、親からすごく注意されたんですよ。「年下の子と遊んでると、あなただけ楽しんでる」とか「年上とばかり遊んでると、屁理屈だらけになるからダメ」とか。
それでも僕は遊ぶのが好きだったし、違う年齢の人と関わるのが好きだったので、先生とかともよく話してたんです。それは結構僕自身を作っていると思うんですね。親の立場からすると、子供がいろんな人と関わっていると、どの人が正しいかを選んでいられないわけじゃないですか。お母さんが、この人なら関わってもいいという人を集めてきたから、この人たちと関わりなさいねってなりがちだと思うんですね。
それは、多様な他者と関わる時にどの人がどんな影響を与えるかがわからないからだと思うんです。でも、そこに対して、親は心配しすぎちゃいけないですよね。
藤川:その心配を払拭するには、もう社会を信用するしかないと思うんですよ。つまり、いろんな大人がいて、一定の数で悪影響を与える大人はいると思うんですよね。だけどそういう人との関わりを親が排除してしまうと、得られるメリットも得られなくなってしまう。
多少は変な大人と出会って悪影響を受けても、それを補うくらいの別の大人と出会う機会を作っておけばよくて。社会はそんなに捨てたものじゃないので、やっぱり確率論的にものすごく大きな数の大人と出会えば、社会がまともに機能している限りはトータルではプラスになる。
ちょっとしか出会わないと当たり外れが大きいんです。例えば、親としか関わらなくて親がハズレだったら子供は最悪じゃないですか。だけど親も含めていろんな大人とたくさん出会っていれば、トータルではプラスになるしかないんです。
若新:一人だけではなく、多くの大人に会わせて判断する。一人目二人目で判断せずに、いろんな人に会わせてることが大事ですよね。
これは自分の活動の話ですけど、福井県鯖江市役所で女子高生を集めてやったJK課というまちづくりのプロジェクトですごくよかったのが、1年目が終わって女子高生たちが「今まで、まちって言われても、まちって何なのかよくわからなかった。でも私たちにとってのまちっていろんな人がいたってことでした」って言ってて。
普通は、市役所の人は高校生に関わらせて良さそうな大人を集めるんですよ。街の有名な人とかいけてる人とか、この人だったら高校生に関わらせてもいいな、みたいな人ばかりを集めるんですよね。
これも古い意味の、よくない意味での教育になると思うんです。これが正しいんですよって言いそうな人ばっかり集める。それが僕はやばいと思ったから、その辺の適当に偶然出会う人たちと次々に活動するっていう風にしてみたんですよ。そしたら結果的にプラスになったので。
藤川:そうですね。でもやっぱり子供なので本当に危険なところには行かせない方がいいですね。そこは大人がある程度安全は確保しなきゃいけないですよね。
「割れた鏡」のおかげで気づく自分の個性
若新:僕がいろんな取り組みしてわかったのは、日本の社会って世界的にみたらかなり平和じゃないですか。本当に反社会的勢力とかが集まるところに行かせない限り、メンターとしてふさわしい正しそうな人のもとにわざわざ子供を行かせなくてもいいって思うし、先生が先ほどおっしゃった、そう捨てたもんじゃないっていうのがとてもよくわかります。
藤川:そこはやっぱり社会を信頼するほかないと思うんですね。社会が信頼できないんだったら子供を守りたくなっちゃいますけど、それなりにみんなある程度面白いしまともな人だから、たくさん関われば多分プラスだろうと。
若新:だから、その自分の潜在的な物とか、自分でも気づかなかったこととか、タイプが違う人とたくさん関わったら、とかちょっとずつ気づいていくんですよね。
藤川:まあそれで傷つくこともあるかもしれないですけど、こういうことで自分は傷つくんだなってことも知れますしね。逆に変な人と関わることで自分の変なところが開花するかもしれないですよね。それが個性になるかもしれない。
若新:ですよね。子供のために変なこと言わないまともな人を探そうとしてしまうというのは、リフレクションに繋がらないですよね。なんであの人にはこう言われたのに、この人にはこう言われるんだろうっていう、同じことをしても違うことを言われるから自分のことを鏡に合わせてみる、みたいな。それもいろんな鏡に。
くすんでる鏡とか割れてる鏡もいるんですけど、全部綺麗に反射するものではない。
そう思うと世の中に「ぽん」と出せば、世の中は開発を促してくれる環境になってるということですよね。
藤川:「色々な鏡に自分を映してみて」っていう言い方に変えると、小学生でもなんとなく理解できるかと思うんです。
私が校長をしている中学の教育目標が、たまたま「自己理解・自己決定・自己実現」なんですけど、言っている内容はOECDっぽいんですね。
つまり、「いろんな場に関わって、社会の中の自分をよく理解して、人と関わりながら自分を決定しなさい」ということで、私から生徒にもよく話しています。
若新:「正しい理解」ではなく「自分なりの理解」をいろんな人と関わる中で気づけばいいんですよね。まずはいろんな鏡を通した上で、自分が「これだったらいいかも」って思えればいい。その通りになれなくても、それをきっかけに今まで気づかなかった何かを学んだり、無茶なことに対してワクワクできれば、好奇心を無くさずにいれるんだと思います。