【8月15日は終戦の日】日本の終戦宣言を振り返る

8月15日は終戦記念日。終戦70年を超え、第二次世界大戦や終戦記念日について知らない子供も増えてきていることでしょう。

一方で、平和を考える上では、第二次世界大戦は覚えておきたいもの。まずは大人の私たちが、第二次世界単線や終戦記念日についておさらいしましょう。

日本の終戦宣言とは?

まずは第二次世界大戦の終戦までの流れを再確認しましょう。

第二次世界大戦を振り返る

第二次世界大戦が行われたのは1939~1945年。日独伊三国同盟(日本・ドイツ・イタリア)を中心とすると枢軸国陣営と、アメリカ・ソビエト連邦・イギリス・中華民国などの連合国陣営で行われた、世界規模の戦争です。

1939年にドイツのポーランド侵入によって開戦。イギリスやフランス対ドイツの戦争、独ソ戦争へと発展します。1941年12月8日、日本軍がハワイのアメリカ海軍基地に奇襲攻撃をかける「真珠湾戦争」を機に、太平洋戦争が始まりました。

はじめは枢軸国が優勢で、日本軍は香港、マレー半島、マニラ、シンガポールなどを占領。しかし1942年ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利してから戦局が転換し、連合国軍が優勢に。次々と太平洋の島々がアメリカの手に渡るようになります。

参考
第二次世界大戦|Wikipedia

終戦への流れ

1944年6月、アメリカ軍がサイパン島に上陸。サイパン島に航空基地が作られ、日本爆撃の基地となりました。同6月には八幡製鉄所を目標に、北九州や八幡地方がB29爆撃機の空襲を受けます。

その後陸海軍の基地や工場にとどまらず、東京、大阪、名古屋、静岡、福岡など各都市が空襲を受けるようになりました。1945年3月10日の東京大空襲では、約10万人が死亡。一夜で東京の40%が焼失します。主要都市や地方都市に住む若者が田舎へ避難する「学童疎開」も行われました。

1944年には日本が特別攻撃隊(特攻隊)を組織。特攻隊とは片道の燃料しか積まず、敵の艦隊に体当たりする部隊。航空機だけでなく魚雷や歩兵もあり、死ぬことを覚悟する部隊で約4000人が戦死します。

1945年4月には日本で唯一沖縄にて、アメリカ軍との地上戦も行われました。沖縄では10代の子供を含む一般市民も参戦。女生徒が看護隊として組織された「ひめゆり学徒隊」でも、半数以上が犠牲となりました。沖縄では住民の4人に1人が犠牲になったといわれます。

国外では、1943年には連合国軍がイタリアに上陸し、ムッソリーニが失脚。9月に無条件降伏します。1945年5月にヒトラーが自殺し、ドイツも無条件降伏をします。

参考
終戦の日|Wikipedia

ポツダム宣言を受諾

「ポツダム宣言」とは、1945年7月26日にベルリン郊外のポツダムで発表された、アメリカ・イギリス・中国から日本へ戦争終結条件を示した宣言。

宣言は13項からなり、内容は「軍国主義者の権力と勢力の永久除去、戦争犯罪人の厳罰、即時無条件降伏の要求、日本の新秩序建設までの連合国による日本の諸地点の占領、日本軍隊の完全な武装解除、カイロ宣言の履行」などでした。

当時の鈴木貫太郎首相はすぐには受け入れず、「宣言を黙殺する」と発表。しかし日本では1945年8月6日に広島、9日に長崎へ原爆投下。広島では約20万人、長崎では7万以上が犠牲となりました。さらにソ連の宣戦布告を受け、日本はポツダム宣言の受諾を決めます。

参考
玉音放送に関するトピックス|朝日新聞

8月15日  玉音放送

日本がポツダム宣言の受諾を決定したのが8月14日。翌8月15日正午に昭和天皇が国民や軍人に日本の敗戦を伝えたのが「玉音放送」です。玉音とは「天皇の肉声」という意味でした。

玉音放送は日本放送協会(NHK)が、8月15日正午からラジオで放送されました。玉音放送で多くの国民が敗戦を知ります。

玉音放送の内容

玉音放送の内容は現代語訳もされているので、一部を見てみましょう。

私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた(中略…)

考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

(引用元:「玉音放送」の原文と現代語訳|朝日新聞DIGITAL

「日本はポツダム宣言を受諾し、降伏する」という一番重要な内容を伝え、国民の理解を求めた内容となっています。

有名な部分が「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という一文。この部分を聞きながら伏せる日本国民の姿は、今でも映像として残っています。その後に続く「永遠に続く未来のために平和な世を」という部分からも、当時の昭和天皇の思いが伝わってくるでしょう。