夏の風物詩・かき氷の歴史と由来とは?ご当地かき氷も一緒に紹介

かき氷は夏の風物詩の一つで、平安時代から続く歴史の長い食べ物です。そして、近年では猛暑が続き、かき氷の需要がますます高くなっています。最近は和や洋のさまざまメニューが考案され、スイーツ感覚で食べられている傾向にあります。

今回は、かき氷の歴史や由来を中心にご紹介しましょう。

かき氷の言葉の由来とは

「かき氷」という言葉は、「欠けた氷(=かけごおり)」が由来です。冷蔵庫がない平安時代に氷室という低温の場所で保管された、欠けた氷を使って作ったのが始まりとされています。当初は、「欠氷」と表記されていましたが、ネガティブなイメージが付きまとっていることもあり、「欠」を使わず「かき氷」という表記となりました。

かき氷の歴史とは

かき氷は、冷凍できる環境と技術が整っている今日の食べ物ではなく、古くから暑さをしのぐ食べ物として食べられていました。この章では、かき氷の歴史について説明していきます。

奈良時代

奈良時代、「かき氷」はまだ「かき氷」として食べられていませんでした。当時、氷は宮中の献上品として貴重なものとして扱われており、「氷室(ひむろ)」という冷温の貯蔵庫で保管されていたそう。加えて、朝廷に関わる蔵氷と賜氷という制度があり、氷室を管理する人物がいました。

このように奈良時代の氷は、身分の高い層にのみ浸透したものということが分かることでしょう。

平安時代

清少納言の枕草子によると、「削った氷に甘い蜜をかけたもの=かき氷」だと書かれています。今日の氷は誰でも手に入るものですが、平安時代の氷は氷室を使い、手間暇かけて雪解け水を自然の力で凍らせた貴重で高価なもの。奈良時代と同様、氷は朝廷にいる上流階級向けのものでした。

鎌倉時代~室町時代

本格的な武家社会に入った鎌倉時代になると、これまでの氷室を扱う制度が徐々になくなります。そして、上流階級が優雅に氷をたしなむという習慣も薄れました。

江戸時代

江戸時代になると、平安時代まで続いていた蔵氷と賜氷の制度が復活しており、徳川家の献上品として復活します。富士山または、加賀(現在の金沢市)に氷室を設け、初夏に氷を交代で将軍がいる江戸に向かい、運ぶようになりました。

また、氷は雪が多く降り、氷の保存がしやすい地域に住む庶民にも浸透。夏の暑さしのぎに口にするという習慣が定着していきます。その一方、雪国から距離がある江戸などの地域では、氷を食べる習慣が庶民まで十分浸透していませんでした。つまり、氷は上流の階層が口にできる食べ物として位置づけられていました。地域によって、「氷を食べる」ことの認知度に違いがあることがうかがわせます。

江戸時代末期~明治時代

幕末になると、これまでの氷の流通に動きが見られ、一般社会でも氷が徐々に知られるようになりました。

実業家・中川嘉兵衛は、天然氷の採氷および製造をビジネスにつなげ、試行錯誤しながらも函館の五稜郭で製氷に成功しました。函館で製造したこともあり「函館氷」と命名。それらを京浜地区へと船便で輸送します。当時、氷の市場のトップだったアメリカのボストン氷よりもコストパフォーマンスが良く、かつ品質も良いということもあり、函館氷のニーズが高まりました。後に中川嘉兵衛は、製氷する機械も提案します。

さらに、1869年には、横浜の馬車道で日本初の氷水のお店が創業しました。日本でアイスクリームを発祥させたお店としても位置づけられています。

戦後~現在

幕末から明治時代の氷ビジネスにより、数々の製氷店が開業。それに伴い、かき氷を提供するお店も続々と誕生しています。戦前のかき氷は、みぞれや金時が定番でした。戦後は敗戦の影響もあり、一時的に製氷工場が多く閉鎖されましたが、高度成長期になると、自動製氷機を用いた飲食店がかき氷を提供するようになります。金時といったこれまでのメニューのほかにもレモンやいちごのシロップを使ったかき氷も食べられるようになります。

そして、平成に入ると従来のかき氷を派生した、抹茶ミルクなどの新メニューも続々と登場。スーパーやコンビニでもかき氷がたくさん販売されています。1995年、ミニストップでは、フィリピン版かき氷・ハロハロを店頭で提供。20年経過した今日でも続いているロングセラーメニューです。

さらに2010年以降は、台湾や韓国で人気の、ふわふわとしたかき氷が日本に登場。SNS映えするビジュアルということも相まって、多くの方の心をわしづかみにしています。