お盆の歴史
中国から日本に伝来した「お盆」の文化ですが、日本国内ではどのような歴史を経て今のような形になったのでしょうか。以下では、日本におけるお盆の歴史について解説していきます。
お盆が始まる以前にも祖先を祀っていた日本
日本では「お盆」というものが伝わってくる以前にも、祖先を崇拝するという考え方は存在していました。「すべてものに神様が宿っている」という「八百万の神」というものが信じられており、これと同様に、「自分たちの先祖も様々に形を変えながら子孫を見守っている」と考えられていたのです。1年の中で初春と初秋の満月の日に、祖先の霊が子孫を訪れて交流する行事があったとも言われています。
また日本の場合はかつて「古墳」という墳墓を作る制度がありましたが、これは大きなお墓を作ることが目的ではありませんでした。古墳は亡くなった天皇や有力な豪族たちの死後の住みかであり、亡くなった人たちの肉体に精霊が戻ってきたとき、生活に不自由しないようにと、亡くなった人の遺体とともに愛用品などが一緒に埋葬されていたそうです。このように、日本ではお盆が始まる以前から、亡くなった人の霊が戻ってくる前提で死者を祀(まつ)ることがあったのです。
日本では飛鳥時代から行われている
お盆らしい行事が日本で行われたのは、飛鳥時代に推古天皇が7月15日の斎会を設けたのが初めてのことだと言われています。その後、斉明天皇が657年の7月15日に飛鳥寺で「盂蘭盆会」という行事を催したそうです。
お盆については文献らしい文献が日本にはあまり残っていないようです。しかし、平安時代に入ってから作られた「今昔物語」の中には、お盆に関する話がよく出てきています。「今昔物語」巻十七にある僧仁康の話では、地蔵盆について下記のような話が残されています。
今は昔、京に祇陀林寺という寺があり、そこに仁康という僧が住んでいた。時に、治安三年(1023)の四月頃、疫病がはやり、道には死屍が累々と横たわっていた。
これを愁えた仁康の夢枕に一人の小僧が立ち、告げていうには「もし汝が地蔵菩薩の像を造ってその功徳をたたえるならば、現世に迷う人々を救い、あの世では地獄で苦しむ人々を救うことができるであろう」
夢から醒めた仁康は、早速、大仏師康成に頼んで半金色の地蔵菩薩像を作って開眼供養し、その後は多数の道俗男女を集めて地蔵菩薩を供養する地蔵講を催した。そうすると、仁康や信者たちは、ついに疫病に冒されなかった。
(引用元:日本人の楽しみ「お盆」は時空を超えた親族が集まる日々|一般社団法人全国日本語学校連合会 )
このように祖先を祀ってあげることで、自分たちも救われるという考え方が感じ取れる物語が、「今昔物語」の中にはいくつか載っていたようです。
庶民に広まったのは江戸時代から
お盆は当初、朝廷をはじめとした武家、貴族、僧侶など、宮廷の上層階級で催されていましたが、庶民に広がりを見せたのは江戸時代だと言われています。仏壇やローソクの普及も影響したのか、お盆でする行事が庶民でもできるようになったのです。
その後、全国各地で地方ごとの風習が加わり、宗派による違いなどもありますが、日本におけるお盆はいずれにしても「祖先の霊が帰ってきて一緒に過ごせる大切な期間」とされ、なじんでいます。