東京大学の著名な卒業生11人の職業や経歴を徹底検証! - cocoiro career (ココイロ・キャリア) - Page 2

東京大学出身の文化人・宇宙飛行士・建築家

東京大学では、数多くの文化人が学んできました。作家だけでも、三島由紀夫氏や太宰治氏、夏目漱石氏、芥川龍之介氏ら、日本人のみならず、世界でも名の通る人物が数多く存在ます。

ここでは、作家、映画監督、教育者などの文化人と宇宙飛行士、建築家を合計7名ご紹介します。

川端康成さん

日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成さんは、東京帝国大学文学部英文学科に入学し、国文学科を卒業しています。

大学在学中に、「新思潮」を発刊し新感覚派として頭角を現します。その後、高校時代の一人旅の伊豆への一人旅を元に書いた「伊豆の踊子」を文藝時代に発表します。代表作に「雪国」「古都」「山の音」「眠れる美女」などがあります。

1968年に受賞したノーベル文学賞の授賞理由は「日本人の心の精髄、すぐれた感受性をもって表現するその叙述の巧みさ」だったとされています。

参考
ノーベル文学賞から50年、川端康成と受賞を争ったのは|朝日新聞デジタル

山田洋次さん

「男はつらいよ」「学校」シリーズで知られる山田洋次さんは、東京大学法学部を卒業しています。

大学卒業後は、松竹に入社して脚本家などを経て、1961年に「二階の他人」で映画監督デビューをします。その後、ヒット作が生まれない時期が続きますが、1968年の連続テレビドラマ「男はつらいよ」がヒットし映画化が決定します。それから、主演の渥美清さんが亡くなるまで、シリーズは全48作に及び、国民的映画になりました。代表作に、「幸福の黄色いハンカチ」、「釣りバカ日誌」シリーズ、「東京家族」、「武士の一分」、「たそがれ清兵衛」などがあります。

新渡戸稲造さん

国連事務次長を務め、日本人の精神を「武士道(The Soul of Japan)」として世界に発信した新渡戸稲造さんは、札幌農学校(現在の北海道大学)を卒業後、帝国大学(現在の東京大学)に進学しています。

帝国大学を卒業することはなく、「太平洋の懸け橋になりたい」という思いで渡米します。その後、ドイツの大学で博士号を取得し、札幌農学校に教授として赴任しています。後に発表された「武士道」に当時のセオドア・ルーズベルト米大統領が感銘を受け、親族や友人に贈った話は有名です。

また、女性の教育にも力を注ぎ、東京女子大学の初代学長を務めるなど日本の教育に尽力しました。

岡倉天心さん

日本の伝統美術の価値を世界に広めた岡倉天心さんは、東京大学文学部を卒業しています。「茶の本(The Book of Tea)」で、茶の湯を通して禅や道教の考え方などを世界に発信しました。

大学卒業後は、東京美術大学(現在の東京藝術大学美術部)の開校に貢献し、27歳の若さで同校の二代目校長にも就任しています。また、その活躍は日本国内にとどまらず、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられています。

さらに、日本の新しい絵画を目指して、横山大観や菱田春草などの育成にも力を入れていました。「茶の本」以外にも、「東洋の理想(The Ideals of the East)」「日本の覚醒(The Awakening of Japan)」の3冊を英語で出版し、日本や東洋の美術を世界に発信し続けました。

畑正憲さん

「ムツゴロウさん」の愛称で、お茶の間の人気者になった畑正憲さんは、東京大学理科2類に入学し動物学を専攻、大学院ではアメーバの生理学を研究しました。

大学院卒業後、学習研究社の映画局に入社し、記録映画を製作しました。その後、同社を退職し、1971年には北海道の無人島で「動物王国」を立ち上げます。動物たちとの交流をつづった著書を多数出版し、菊池寛賞を受賞しました。1980年には「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」(フジテレビ系)のテレビ放映が始まり、世界中を旅しました。また、麻雀の腕はプロ級です。

山崎直子さん

11人いる日本人宇宙飛行士のうち、4人は東京大学出身です。山崎さん以外にも、東京大学出身の宇宙飛行士は、野口聡一さん、土井隆雄さん、古川聡さんがいます。山崎さんは、東京大学工学部航空学科を卒業し、大学院で航空宇宙工学の修士課程を修了しています。

その後、JAXA宇宙飛行士候補者に選ばれ、ソユーズ宇宙船運航技術者、NASAスペースシャトル搭乗運用技術者の資格を取得し、2010年にスペースシャトル・ディスカバリーで宇宙に向かいました。引退後は、多くの人に宇宙を知ってもらうために、積極的に活動しています。

丹下健三さん

「世界のタンゲ」と言われる日本を代表する建築家の丹下健三さんは、東京帝国大学工学部建築科を卒業しています。

大学卒業後、前川國男建築事務所に入所し、東京大学大学院で学びます。大学院卒業後は、助教授として教鞭をとり「丹下研究室」を立ち上げ。1949年には、広島市の平和記念公園及び記念館のコンペで1等になり、1951年に広島の計画案を発表し海外デビューを果たします。

その後、フランス、アメリカ、イギリス、西ドイツなどでさまざまな賞を受賞しています。代表的な建築作品に、広島平記念公園、国立代々木競技場第一・第二体育館、クウェート国際空港、赤坂プリンス新館、フジテレビ本社ビル、東京ドームホテルなどがあります。