自分の居場所はありますか?大学生が集まる小さな教会でのお話 - cocoiro career (ココイロ・キャリア)

ハロー!トムです!
アメリカに滞在していた頃、私はよく教会にお世話になっていました。教会の方々は優しくて、たくさんの助けの手を差し伸べてくれました。私や私の家族はキリスト教信者ではないのですが、それでも彼らはたくさんの神のご加護を願ってくれました。そんな経験もあって、そして縁もあって、現在もここ東京で小さな教会に通わせていただいてます。そこの人々もやはり優しくて素敵で、心の落ち着く人々で、今日はそんなお話です。

私の通っている教会

教会ってどんなところだと思いますか?


もしかしたら、今みなさんはサグラダファミリアみたいな形をしたてっぺんや正面に十字架が飾ってあるような建物をイメージしているかもしれません。中は立派なステンドグラスで囲われていて、大きなオルガンの音が響き渡る、みたいな。
私の通っている教会は、とても小さいです。早稲田大学から徒歩3分の、民家の並びにあります。外観はちょっとしたお惣菜屋にガラス戸がある感じです。屋根は三角でもなければ、外には十字架なんて一つも見当たりません。中も一般の住宅と変わらずキッチンがあってトイレがあって。ただガラス戸を開けて入ったところに皆でお話しするスペースがあります。真ん中の机を囲んで椅子が置いてあって、ここで先生や参加者のみんなとたくさんのお話をします。

先生は、もともとキリスト教系の高校で20年間牧師さんをしていた、ということ以外私にはわかりません。
ただ明るく楽しく、約三回りも年下の私たちに響く言葉の伝え方をして寄り添ってくれる、とても優しい方です。

そんな先生が毎回テーマを設定して、それについてみんなの考えを交換したり先生がキリスト教の考えや言葉を紹介してくれるのが、私の通っている教会で行われていることです。

私の大好きな時間

教会ではみんなで考えを共有し合うのが主な時間です。

私はその時間が大好きです。何故ならば、そこの場の人たちの優しさを感じるから
普段の生活では、自分の考えだけを押し付けて他人に興味がない人も多いと思います。しかしその場は、みんなが誰かのためを思う優しさで溢れていて、自分をオープンにすることに恐怖を感じない優しい場所です。

すごくふんわりした表現になってしまいましたね。そんな時間について、実際に話したこと2つを例に出して紹介していきたいと思います。

究極の愛とは何か

私が1番最初に訪れた時のテーマがこれでした。
みなさんはどう思いますか?

私は最初、家族の愛だと思いました。よく、親からの愛を無償の愛と表現しますよね。なんとも心温まる表現だと思いませんか。自分の償は気にせず愛を与えてくれる、それが親であると思います。

祖父母からの愛情

ただ、私がこれを肌で実感した出来事は親に対してももちろんですが、祖父母に対して感じていた事でした。
祖父母は幼少期から私を可愛がってくれ、現在も親が海外にいる私の面倒を親に代わって見てくれています。訪れたら様々なもてなしをしてくれ、特に何をするわけでもないけど時間を共にするだけで喜んでくれます。
そんな祖父母を訪れた時にふと思いました。「彼らはおそらく、自分がどれだけクズになってたとえ存在を犯すような真似をしてもどんな真似をしても私を見捨てることはなく、愛を注いでくれるんだろうな」と。
そう思わせてくれた祖父母の愛は、間違いなく無償の愛なんだなぁと感じ、胸が熱くなりました。家族の愛の偉大さを感じた瞬間でした。

自己犠牲をしたキリストの愛

教会ではこれを「自己犠牲的な愛」と呼びました。自分への見返りを気にせず、周りの誰かのために生きる。まさに磔にされたキリストが人々のために行ったことであり、磔にされた時、キリストが注いでいたものは間違いなく無償の愛でした。

そして、それを家族のみならず他の人にもできたら素晴らしい、という話を聞きました。皆がその気持ちを持てば世界はやっと平和を迎えるのですが、そうはいきません。そんな中でも、そしてそんな中だからこそ、それを望む人が自己犠牲の愛を注いでいくことが求められいるのではないかということでした。

しかし、それではいずれ自分に限界が来てしまうことが往々にしてあると思います。
そんな時に助け合えるのが、その教会にいる仲間たちでした。同じ志を持って、同じように辛い思いをすることもある仲間たちがいるからこそ、頑張ろうと思える。そんな人々に出会えたのが、この日でした。深く深く、感謝をしました。